imgp1788以前にも掲載して好評だった座談会。

今回は長年にわたり一游会に貢献していただいた
津村さん・藤本さん(30回生)、
山口さん(31回生)、
石田さん(32回生)、赤司さん(34回生)に
お集まりいただき、
昔の水泳部、至大荘、その後についてなど
ざっくばらんに話をしていただきました。

昔の水泳部の風景                 

津村 我々が入学したころはまだヘッドコーチの体制が固まっておらず、先輩たちが入れ替わり立ち替わりで練習を見に来るというものだったな。記憶が確かなら関口さんや森さんがヘッドコーチの体制を確立したと思う。

石田 昔は冷房があまりないから暑い時期にはプールに涼みに来ている先輩もいましたね。

赤司 游泳部長は湯野先生だったけど、形ばかりでほとんどノータッチでしたね。

津村 プールでは種目別にコースが分かれていて、それぞれ「ロング」「ビート」「アーム」「ダッシュ」という練習内容。腕だけや足だけで数百メートル泳ぎ続けるメニューばっかりだった。速くなるわけがないよな。

山口 2年の頃にようやくインターバル練習が導入されたんですよね。800m1本ではなく、100mを8本などの練習ができるようになった。でもその頃はプールサイドに時計がなく先輩が手に持つストップウォッチだけ。しかもよく壊れるんですよね。3つあるのに全部壊れているときもあった。

津村 そのストップウォッチでタイムを読み上げて記録帳に記録するんだよね。いいタイムだと「カツ丼タイム」といってカツ丼をおごってもらえる。

山口 練習の最後は「ダッシュ」だったけど、100mや50mのダッシュを何本もやらされる。

石田 毎回、プールから上がってやりなおすのがキツイんだよね。先輩に手を持って引っ張り上げてもらうんだ。

津村 冬場は最初マラソントレーニングばかりだったけど、高橋さんがサーキットトレーニングを作って腕立て伏せや腹筋をやるようになったな。

山口 九段に入って2年目にアジア大会(1958年)が東京であった。そのときに都内の貴重な屋内プールとして九段が練習用プールとして利用された。山中毅(早稲田大学・自由形)、古川勝(日本大学・平泳ぎ)とか速かったよなあ!

津村 その頃のブレストは古川勝の潜水泳法が速いと言って、潜ってばかりの練習だった。先輩から「潜れ! 潜れ!」ばかり言われた。行きはがんばれるんだけど、帰りの25mはすぐに上がっちゃう。そうしたら次の年から潜水禁止になり一掻きだけになったんだよな。

石田 そのアジア大会のおかげでお風呂のボイラーが使えるようになった。その頃はまだ薪でお湯を沸かしてた温めてたんですよね。

津村 学校中から薪になる木材を集めてきてな。使っていない勉強机は当たり前として、備品の大八車まで燃やしてしまった。「やめてくれ」って頼まれたから鉄で出来た骨だけ返してあげたんだ。

藤本 お風呂は男女一緒。誰からともなくダンチョネ節や数え歌など歌い出してみんなで合唱しました。懐かしい思い出です。

石田 当時は男子は水褌で練習をおこなってたね。部室で広げて乾かすんだけど、生乾きでね。乾いた他人の水褌を先輩がよく取っちゃうんだよなあ。それで皮膚の病気が他の人に・・・。(以下自粛)

津村 水泳部にはいろんな人がいて、大徳はバッタを食べたんだよな。みんなで電車に乗ってたら、窓からバッタが飛び込んできて。「コレを食べたら5円やる!」って言ったら本当に食べちゃった。

山口 カエルを食べたら50円という話もあったけど、それは実現しませんでしたね。

赤司 神楽坂の田原屋(1階がフルーツ屋、2階でカレー、ハヤシ、オムライスなどを提供していた洋食店。2002年に閉店)にも行きましたね。

石田 スノーハワイアンというかき氷だね。丸十のコッペパンもよく食べた。

津村 コッペパンをもって喫茶店に入るんだよ。そこでコーヒーを頼むんだけど、ウェイトレスさんに「砂糖は有料ですか?」って聞くわけ。「ただです」って返事を聞いたとたんにコッペパンを出して砂糖を隙間に目一杯詰めちゃう。あとはいかに誰がおしぼりを一番汚せるか競う「おしぼり汚し競争」ね。泳いだばかりなのになぜか汚いやつがいてうけた。そんなことばかりやってたよな。

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水泳部 夏の合宿

赤司 夏の合宿は1週間だったかな。

石田 布団を自分たちで持ってきて柔道場で寝るんだよね。

津村 女子は通いなんだけど、男子は泊まり込みなのでメシ当番がいるんだよね。3食作らなくてはいけない。卒業してすぐの先輩の役目。

石田 指導はしないけど、メシだけ食べに来る先輩がいたよなあ。当時の合宿は先輩方のカンパで賄っていたので、先輩方に敬意を表するために、食事は現役より先輩が優先だった。大学生は至大荘に助手で行ったときの手当を合宿経費に充てていたね。

赤司 私が2年時の合宿で食中毒が発生してね。ウインナーが古くなっていたようで3年生はなぜか平気だったけど、1年生と2年生はかなり苦しんだ。当時でも問題だったんだけど、ところが先輩に医師がいて穏便に済ますことができた。

山口 穏便にと言うか、内密にだね。外に問題が漏れなかったからね。その頃は一游会の会長が医師だったから。

津村 原因が特定されなかったから、消毒液を内緒でもらってきて食堂や厨房を全部消毒してね。大変だったよ。

赤司 山口さんと言えば、おかずがないからご飯にマヨネーズをかけて食べていたのが忘れられないですね。

藤本 女子は泊まりじゃないけど、朝ご飯の差し入れとか大変だったんだから。

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水泳部 試合での風景

藤本 関東大会かインターハイのエントリーのために丸ビルの722号室にあった日本水泳連盟に行ったのが今でも忘れられない。インターハイの100m平泳ぎ、200m平泳ぎに出場できたのよね。女子は男子と一緒に練習しているせいか打たれ強いんですよ。

石田 高知での高校総体(第26回1958年)に藤本さんたちが出場するときは、東京駅まで見送りにいったよね。夜行列車だから夕方かな。荒木さんという人が「万歳三唱しよう!」と言い出してね。ホームでやるのかなと思ったら、三等列車の中まで入っていって「乗客のみなさん! こちらに座っている藤本と日下部はこれから高校総体のため高知まで向かいます。彼女らの成功を祝して万歳三唱をお願いします!」とやるんだよね。

藤本 あれは恥ずかしかった。引率は森先輩(26回生)でした。東京都立大学の学生でおられた森さんが若い女子二人を連れて行ったのです。しかも、旅館は一部屋でしたから、ちょうど成城高校から男子一人に先生が引率されていたので、部屋を交換して森さんは一緒に泊まらせて頂いたのでした。

石田 都大会は申し込んだら全員出られたから、よく1500mに出場したね。

赤司 エントリーすれば出られるから午前中いっぱいは1500mで終わってしまう。だいたい残りの150mは「独泳」でしたね。

石田 おれも神宮プールで1500mは常にビリで「独泳会」だった。九段の応援部隊がプールサイドにいるんだけど、いつまでたっても席に戻れない。もちろん決勝には出られないから夕方早めに信濃町駅から帰るんだけど、コーチの森さんが「夕闇迫る 神宮の森に 決勝の声を聞け」と言ったのを今でも覚えてる。今年は実力が足りず、決勝が行われる夕方まで神宮プールにいられずに帰るが、次こそは決勝に残れよ、という意味だよね。それと屋内プールの高校が少なくて、みんな肌が真っ黒なんだよね。白いのは速い日大豊山かそうでもない九段で両極端なんだよね。

赤司 当時の対抗戦は日比谷、港工業、新宿、東大付属だったかな。

山口 1年生の時の対抗戦は本当に大変だった。男子が全員で6人しかいないので、一人で何本も泳がなくてはいけない。

まずバック荒木、バタフライ山口、ブレスト津村さん、フリー真島さんで、400mメドレーに出る。そのあと800mフリー、200mフリー、200mバタフライ、800mリレーを泳ぐんだもの。

津村 最後の方は、息が整わないから「すみません、10分休憩をお願いします」と相手に何度も言いに行く羽目になったな。

赤司 対抗戦は男子だけで女子はありませんでしたね。当時は男尊女卑で、男子が女子を呼ぶときは呼び捨て、女子が男子を呼ぶときは同期なら「さん付け」。後輩でも「君付け」にしなくてはいけない。

藤本 私が津村さんを呼ぶときは「津村さん」て呼んでいる。同期なのに。

津村 おれは「藤本」と呼んでるけどね。

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当時の至大荘

赤司 助手は全員水泳部で12~3人は常にいたかな。AからDの4班で8名。半期で20名くらい。水泳部を卒業したら必ず参加するものだった。

津村 観海亭で夜遅くまで酒を飲んだり語り合ったり楽しかったよな。彼女とのデートもすっぽかして行ったもんだ。

山口 彼女なんていなかったじゃないですか。

津村 みんなで芸をやるときは進んで女形をやって盛り上げたけどな。ダンチョネ節の作詞もしたのではなかったかな。

山口 至大荘節を作ったのは津村さんが中心でしたね。

津村 おれたちは水泳部の3年間と浪人の1年、大学の4年と8年間一緒に過ごしていたから、今でもつながりがあるんだよな。

赤司 お互いの家にもよく遊びに行きましたね。

津村 山口の奥さんには迷惑をかけたなと思ってる。

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水泳部でよかったこと

赤司 菊友会の会長として見ていると、他の部に比べて水泳部および一游会のつながりが最も強い。

20年くらい前に34回生を中心に、上は23回生、下は40回生までを集めて「若年寄会」を作った。上は森さんから青木さんだね。その仲間とは70歳になった今でも年に何度も会ったり、ゴルフに行ったりしている。プールで培った絆は深く、菊友会でも存在感を示している。この仲間に会えたのが大きいね。

津村 高校3年間と浪人から大学の4年間を仲間と過ごしてきたから家族以上の絆ができあがる。精神的なホモ集団。不合理なことでも受け入れる精神力が身についたな。それに、社会人になってからトラブルに見舞われても、一游会には弁護士や税理士、銀行家などあらゆる職業がそろっている。これまでも何かと助けられたね。

藤本 私は九段の3年間が本当に楽しかった。高校卒業後、すぐに三菱銀行に入行したんだけど、それも一游会の先輩のおかげ。三田高校の卒業生と話をしていても、勉強ばかりしていて、いい思い出のない人がいる。その点、私は九段が楽しくて仕方がなかった。今でもいい思い出ばかりが残っています。

山口 九段の水泳部は練習がきつかったし、先輩とのいたずらも厳しかったけど、社会に出てパワハラやセクハラなど受けても絶対に負けない。その点は良かった。
学校から先輩と一緒に帰るときに、電車からホームに突き出されたことがある。あえなく電車はドアを閉じて置いてけぼりになるんだけど。ただ、先輩がその先の神田駅で待っていてくれるんだよね。心の底から憎めないんだよなあ。

石田 いつ終わるかわからないダッシュなど、水泳部の練習は本当にきつかった。でも、きつかったからこそ、その後の人生で潰れないですんだ。
実は私は以前、ホテルを経営していたんだがうまくいかず破産した過去がある。破産というのはストレスもすごいし大変だけど、死のうとかは思わなかった。あの九段の暗いプールで練習していたことを思い出せばなんてことはない。へっちゃらだ。
若年寄会の人達、一斿会の先輩や後輩の励ましも大いに支えになった。いまは千葉の館山で漁業権を手に入れて海人(あま)をしている。ウェットスーツを着て、朝9時半から昼12時まで毎日海に入り、アワビやサザエを採っている。ちょろいとは言わないし、くたびれるけど、昔も2時間の遠泳をしていたし、なんとかなる。
若い諸君も、千葉の海を知りたければ、いつでも教えてあげますよ。

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